中田敦彦さんの『サピエンス全史』の動画を観て

資本主義というイデオロギー

お金があれば幸せという主張

大金持ちが最終的に求めるもの

健康、長寿、不老不死

不老不死になった場合に求めるもの

幸福

幸福を求めると

真理を追究する?

スピや宗教で求道する?

求道をやめる?(禅や老子や道教)

悟り?解脱?自然体?あの世的な進化?

 

賃金、お金を持っている量の格差が恨みを生む?

民主主義と資本主義を掛け合わせる

能力がある人に投票し、投票数に応じて給与を決定する

能力がある人が高給であることはある程度嫉妬を抑えられる

事業を起こした資本家が無能な場合はどうする?

従業員が株を利息を付けて買い取る?

すべての企業を国が買い取ってからの企業内投票?

社会主義と民主主義と資本主義

 

サピエンスは妄想で外敵を作って統一する?

UFO、宇宙人の侵略?

 

現代で原始生活よりあきらかに増えたのは自殺

自殺を考えるような現代になったからスピや宗教的な死後の妄想を作った?

自殺を考えた学生時代。本気では無いけどみんなも一度は考えたことがあるのでは?

何のために生きているのか?何のために勉強しているのか?生きていることに意味はあるのか?本気で死ぬことを考えるとさすがに本能的に恐怖を感じる。それで死後や宇宙について妄想した?俺は妄想した。この世界は全て俺の妄想で俺が死んだらこの世界も終わるとか。逆に俺が死んでもこの世界は続くのか?宇宙とは何か?宇宙の果てってあるのか?

ガキの使いやあらへんでのフリートークが週に一回の生きがいだった。

テレビが生きがいという不自然。

原始的な生活なら生きがいは何とか無いような気がする。

なぜ生きがいのテレビがないとやってられない中学時代だったのか?

少なくとも中学時代はそれなりに幸せだったはず。

それでさえ生きがいが必要なほど不幸だった。

相対的には幸せだったはず。

クラスメイトの中ではかなり恵まれていたはず。

やはり不自然な教育というか同年度に生まれたという条件だけで集めた30~40人をなかなかの面積の教室に入ってもらって授業を受けるのは不自然だろう

その中で比較が生まれるのも不幸だし不自然な気がする

僕は中学の時は成績も良かったし、その中では『比較すれば』幸せだっただろう

でもこの上から目線をやってる時点で気持ち悪いし、この無意味な優越感によるプライドの高さが『プライドは高いけど仕事はできない無能』を生んでいる気がする。

原始生活では自然で生きがいを考える暇も概念も無いのかもしれない。あるかもしれないが。

そもそもあれこれこういう風に考えてること自体が教育の問題点な気もする。

できるだけ普遍的になるように『?』をつけることによって断定を避け、自分は真理を知らないが故に断定をさけているポーズを取る。

普通に生きていればいいという意味で今は老子的な考えで生きているかもしれない。

過去に思っていた人の役に立つというモットーもいまだにあるし、それはそれで間違いでもない気はしている。

量子力学的な0か1ではなく、0であり1である両方みたいな。

量子力学には全く詳しくないが。(とまた逃げを打つ)

そんなに自分より量子力学に詳しい人からの批判を恐れているのか?

よく分からない。

これもまた学校教育の弊害な気もする。

確かに現代で生きるには高学歴の方が有利だ。

親も自分のDNAを存続させるために子供により良い教育を受けさせるのかもしれない。

しかし親も子供の時はいわゆる教育が嫌いだった人が過半数を超えているのではないかと思う。

なぜ自分が嫌だったことさせるのか?

自分が親になったら勉強しなさいと言わないようにしようと僕は思っていた。

僕は子供はいないし、いたとしても勉強しなさいとは言わないつもりでいるが実際の場になったら言うかもしれない。それは分からない。

現代では確かに生き残る術の勉強だが、半分本当で半分嘘のような。

資本家の奴隷ではないか?

ある意味80点の人間。

反逆もしない。

人の顔を窺う人間。

常識をある程度守る人間。

これは体制としては扱いやすい。

ある程度の賃金は得られるがそれだけ。

年収1000万円で最期まで満たされて死ねればいいが、僕だったら間違いなく生きる意味とか真理とか考えてしまうと思う。

ある意味、暇だとそういうことを考え始めるのかもしれない。

考える余裕がある分、幸せとも言えるが不幸とも言える。

平均年収を稼いで、それなりの安易な生の為の不幸というか閉塞感というかオリジナリティの無さというか。

それで安易なオリジナリティを出そうとしてSNSをするのかもしれない。

働くための死。

人の役に立つ為に働くのは素晴らしいが搾取されずに働き、人の役に立ちたい。

存在するだけでいいような気もする。自然に。

自然に存在することさえも難しい不自然さ。

しかしテクノロジーと共に行くのだろう。

 

オバケという言葉とゴーストという言葉は別に生まれたのだろうか?

同じようなものを指す言葉だと思うがどちらかがどちらかを翻訳したものなのだろうか?

僕があの世的なものを信じる根拠の一つではあるのだが、サピエンスは遠隔地でも同じような妄想をするのだろうか?

100匹目の猿的な臨界点を超えると世界の一般常識みたいになるのだろうか?

UFOや宇宙人の侵略ではなく、オバケという妄想の仮想敵でサピエンスは団結しようとしているのか?

仮想敵の妄想をうまくできないからサピエンス同士で殺しあっているのか?

核爆弾で侵略戦争は終わったそうだ。

オリンピックや国同士のスポーツという妄想で戦争を妄想化しているのか?

よく分からない。

 

人間の科学的進化と共に動物の種は絶滅のスピードを上げているようだ。

種の多様性は失われ、ナチスによる人間に対するホロコーストの代わりに動物に対するホロコーストは続いているのかもしれない。

地球は死に、火星や月に移住するのか?

人間が驚くべき進化を果たすのか?

サピエンス全史の作者はヴィーガンだそうで。

 

ツイッターなどで情報を共有することはある程度、役に立つと思う。

ツイッターを見ない日は無い。

見ないではいられない。

これは中毒だ。

ストレスになっている。

ミニマリストは物を捨て、身軽さや爽快さ、開放感などを感じ、最後にはSNSや情報も捨てるのか?

高城剛はSNSをやっていない。

だからなんだ。

今日、テレビを観ていてフジテレビの伊藤アナが明らかなミスリード・故意に誘導しているパネルを読まされていた。

とんねるずとかと絡んでいるとき、おもしろいアナウンサーだな~と子供心に思っていたので何か残念だった。

伊藤アナは頭いいし自分がミスリードしている自覚もあると思う。

でも生活もあるだろうしフジテレビの意向に背くことは死を意味するだろう。

だから仕方ないなーとも思う。

そうなってくるとやはり最後は個人の情報に対するリテラシーが全てなのかなと思う。

 

健康にいいものは全人類である程度、似ているとも言えるが、DNAで全然違うとも言える。

サツマイモ、ブロッコリー、ブルーベリーはある程度、みんなにいいとも言えるが全人類には絶対に当てはまらない。

発芽玄米もある程度、身体にいいが更に当てはまる人数は減る。

最終的にはDNAによって、その人の最適は他人と違う。

多人数で実験しても、75億人全員に対する最適解が一つの方法になることは多分無い。

ツイッターで共有する情報も最終的に自分で考えて自分にとっての最適解を見出すしかない。

SNSが自分で考える力を削ぐ可能性はあるかも。

情報を一日でも完全に断てるだろうか?たぶん僕には無理だ。

客観的に考えて、すごく簡単そうな事なのに。

でも現代の人は結構、僕と同じなんじゃないかな?

一日完全に情報を得なくても大丈夫なら中毒じゃないかもね。

どこまで耐えられるかな?

何日耐えれば中毒じゃないのかな?

耐えるという感覚が無い人がきっとそうなんだろう。

高城剛も本はめちゃくちゃ読んでるし。

だからなんだ。

とりあえずはネットの情報から減らしていきたい。

 

昔はテレビの情報は有益だと思っていた。

ちょっと前はネットの情報は有益だと思ってた。

今はネットの情報は有益かな?って思ってる。

ツイッターやニコ生を少しでも観てくれる人がいることに変なモチベーションを持ってはいけない気がする。

今は自然に生きてみようとそう思ってる。

そう思いながらも発信してる。

0も1も両方が僕だと今は思ってる。

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